2008年03月30日

あといちねん

この1年の目標

とりあえず、10kgはやせること
こんぺを一つとること
週2日は運動をすること
ビールは3杯、焼酎2杯でおさえること
年間50冊は本を読むこと

あー忘れてた、彼女をつくること

まあ最後のはいいとして、上の5つは実行しないと
まずいなー
posted by Routine at 00:43 | Comment(24) | TrackBack(2) | 雑記
2006年12月30日

働くこと


こないだ、2年間個別で教えてきた生徒の
最後の個別をしました。
自分の卒業設計のせいで、ほんまやったら
あと2ヶ月ぐらい見たげるべきなんですか、
しかたないです、1、2月はほぼ学校に住むので。。
で、そこでは、僕は別で家庭教師やってるのと変わらないぐらい
頂いてたんですが、確かに値段はいいですが、
生徒と一対一で向き合って、ときには、内面的なとこに立ち入って、
肉体的にはしんどくないですが、
精神的にしんどい仕事だと思いました。
学生より頭悪いわけにはいかないし。

んで、
塾の先生にお疲れさまってことで飯をおごってもらったんですが、
そんときに、
「700円とか、800円とかって場合でも責任はあるけど、
1000円以上時給もらってやる仕事は、責任が伴って当たり前やって。」って言われて、
それは、誰でもできる訳じゃないからそのバイトやってるんやから、それが学生の副業であろうとも、仕事であることには変わらないって趣旨のことを言われて、自分の昔のバイトのことを振り返りました。
僕が前やってた仕事は、その仕事場では、ほんとに無駄な仕事だなと思ってました。担当する授業で生徒と触れ合える時間は、頑張って1時間弱。生徒がどんな学力で、どんな人でってのをわかるための資料は、高校名と模試の資料のみ。断片的にしか入ってこない情報しかない上に、授業後の遅い時間に呼び止めたり、忙しい部活の間のたまたま休みの日の授業前に早く来させたりして無理矢理話をさせて、気まずい会話をして、ほんとに無駄だと思いました。
予備校のシステムでは、小さな個別指導とか、塾的なシステムは、無理なんです。でも、能力を認められて金をもらっている以上、それに見合う仕事をしないといけないなとは思います。そういう葛藤が、最後の2、3年ぐらいありました。
最近の生徒はよそよそしいし、頭悪いし、どうしようもないけど。
現状のままではなんともならないことがわかってるのに、中途半端に塾みたいな事したり、授業に頼らなかったり、テスト前に授業休みにしてみたり、あれではいかんだろとは思いますけど、誰も何ともしないんだろうな。
そんな感じでも、一応金に見合う仕事をしてきたと思ってましたけど、今思うと、そうでもないかなとか、自分の能力の低さと諦め具合にいらいらしたりもします。
posted by Routine at 13:43 | Comment(0) | TrackBack(4) | 雑記
2006年12月29日

都市とかなんとか

ずっと、内藤廣をかなり傍目には崇拝してきた訳ですが、
なんとなく、ずっと腑に落ちないってか、
確かに、いいこと言ってる気がするし、建築も嫌いじゃないけど、
なんだか違和感があるなって気がしてたわけです。
で、その理由が最近思いあたることがあって、
今、土木で景観の教授をやってるわけで、
建築についても、土木についても、その境界的な領域にも
どちらの立場からもいいことを言ってると思うんですけども、
思ったのが、
なんだか、それらを包括する都市について、ビジョンを語らないってのが、
なんだかなんです。
都市が、今の現状ではよくない、
建築の現在の方向性ではよくない、
とか、そういう現状の否定はあるんだけど、
都市としてどうあるべきかってのを
言ってない気がするんです。
いや、表立って言わないだけで、
意気地なしの風景を良くするやり方を持っていて、
僕にわかっていないだけかもしれないですけど。
いくら領域の境界を超えて、それぞれの分野にはみ出していっても、
総体としての都市はよくならないんじゃないか。
私性を背負った建築と公共を代表する土木と、その狭間と、
コミュニティと、なんだとかとって考えたときに、
優秀なプレイヤーが集まったところで、
優秀な指揮者がいないと意味がない気がする。
タクトを振る能力は、それぞれのプレイヤーが必要な能力とは
別なものな気がする。
そして、あの有名なたとえのように、
一匹の羊と百匹の狼の群れより、
百匹の羊と一匹の狼の方が強い訳です。

建築家ってのは、プレイングマネージャーになるべき人も
必要なんじゃないか。
もちろん、自分の分野で頂きを目指すことも重要なことだけど。
posted by Routine at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 建築とかデザインとか
2006年12月28日

ブログを書く行為

他人の領域に、簡単にブログだと軽口が言える。
それを続ける限り、アルファブロガーの権威なんてなきに等しい。

科学だ、宗教だ、なんだっていいが、
それらが一つのシステムとしてとらえるなら、
各自の文法が、ルールが、制度があって、
それらは、その内部で矛盾さえしてなければいいものである。

穏健な宗教だろうが、えせ科学であろうが、科学であろうが、
ほんとのほんとに正しいことを基準に始めるなんてできないし、
ゲーテルを出すまでもなく、その宗教や科学のもとになる真理が正しいかは
内部では根本的に判定不可能だ。
まずはじめに何かを信じる必要がある。
それが、どの程度の人間に通じて、どの程度の時間的な広がりがあって、
どの程度正しいと思えるかってことしかない。

404 Blog Not Found:道徳やしつけの根拠は自然科学にある
一つ提案がある。「ここまでなら信じてもよさげリスト」というのを、科学者一同で作ってみたらいかがだろう。


だから、やっぱりなんて、「ここまでなら信じてもよさげリスト」なんて、
コンテンポラリーなものでしかない。
posted by Routine at 02:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
2006年12月20日

まだ、信じられるだろうか

ここのところ、限界が見えてきて、
悩んでいた。

僕はまだ自分を信じられるだろうか。
問うてみた。
まだ、何もしてない。まだ、何でもできる。
いつでも、何でもできる。まだある。
世界には、まだ無数の可能性がある。
何もまだ、閉じてない。
まだいける、に違いない。
まだ、ある。まだまだある。

僕は、まだ、自分を信じられるだろう。
posted by Routine at 10:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
2006年11月26日

太陽はいつも透明で暖かく

もう11月も終わりにかかって、
卒業設計まであと3ヶ月をきって、
24歳ももう4週間以上経ったわけで。

何年か前には、自分は、50過ぎで死ぬもんだと
思ってました。
今も多少はそう思いますが。
そうすると、50という最期まで、もうすぐ折り返しです。
もう少し生き急がないとと思います。
posted by Routine at 02:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
2006年11月17日

都市のかなしみ

イングリッシュガーデンとかが流行ってきれいなバラの咲く家とかってのを見てると、うすら寒いものを感じる
って昔前の教授が言ってたを思い出します。

地名は金額に代えられ、場所は空虚化します。
都市は個性を失い、
駅前には同じような風景が広がります。

もともと個性よりも、いかに追いつくかで勝負してきているから、
急に個性とか言われても、難しい訳です。
だから、コミュニティとかワークショップとか、
市民の声とか、そんなやつは全部似たような風景を
作る事を助長するだけです。
自然、省エネルギー、エコロジー、地域住民の声、コストダウン、安心、天然素材、…。
誰もが否定できない、絶対的に良だと信じられているものは、
免罪符になって、どんどんフラットにさせるだけです。
だからといって、オリジナルなんてものはなく、
引用だとか複製だとかそんなものでしかない訳です。
建築や都市にはもう誰もカネ以外に期待していないんじゃないでしょうか。

多様性を失うということは、変化にもろくなるということです。
都市の多様性を維持すること、
もっとちっちゃくいうと、
場所を大事にする事が基盤として重要なんじゃないでしょうか。
いくら、あちら側がにぎやかになっても、
身体はこちら側でしかないですから。
posted by Routine at 01:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 建築とかデザインとか
2006年11月15日

なぜ都市河川か

都市は、歴史のレイヤーの重層で組織されている。
新しいレイヤーは、場合によって、それまでの歴史を
失わせる。区画整理、鉄道の開通、河川の流路の変更。
それらは、河川に痕跡として、残る。
水路、境界線、土手、氾濫、埋め立て、暗渠化。。。
これらは普段気づかないようになっている。
目に見えないこと、当たり前になっていること。
それらは、都市を形作ってきた努力の成果であり、
ノスタルジーの源泉。未来への基本設計図。
しかし、それは、時によっては、暴力的に起きる。
天神川は、元の流路から、付け替えられたことによって、
名前と川が転移した。
御土居堀の堀として機能したころより、天井川として、
幾度も氾濫した川の面影はない。
深く掘られ、遠ざけられ、命を奪い、田畑を潤す水は、
ただの雨水集積所となった。

京の都の境界線、区画整理の痕跡、農業用水、氾濫、地下鉄駅、
現実の川と過去の川と歴史とが、トランスして、混ざり合う。
流れ行く。
transflow
流れ、混ざり、揺さぶる

posted by Routine at 00:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 建築とかデザインとか
2006年11月06日

原点回帰

もう一度戻る事にする。
まず、
建築ってのは、理性で制度だから、そうじゃない部分、
システムにならないところ、
感性、感情に訴えかける部分に興味があって、
んで、喜ぶとかじゃなくて、
涙、泣く事をテーマにしようと思った。

一方、交通に興味があって、それが、
例えば、バス停とか、地下鉄とか、インフラで
都市を支えててるけど、人口が減ってくると
使用頻度が下がってきて、都市における意味が低下してくる。
というか、都市が縮小していく。
そんときに、場所のアイデンティティを示すのが駅やバス停で。
つまり、そういった交通システムが、都市を構造化してるって
予測があって、そこから都市を再解釈する。
みたいなことを考えてた。

posted by Routine at 02:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 建築とかデザインとか
2006年10月30日

卒業設計敷地選択

高瀬川は、メジャーすぎる敷地選択な上に、
歴史をはらみすぎている。
それは、常に京都市民の意識のあるところで、
京都の部落問題、在日問題を考える上で、誰もがさけて通れない。
有名すぎる。そんでまた、有名な指定のとこの本部がある。
外の人間にたいして、冷たい。
上流の方の夜の街の部分は、テーマとしてはあっても、
で、どうするの部分に欠ける。
敷地がテーマになってしまいそう。
いろんな人の情念が張り付きすぎてて、今も残っているから、難しすぎるのかもしれない。
それと、
形のない、ファサードのない、建築。
概念としての建築。
発見という行為の果てに生起する場。
んーどうしよう。
posted by Routine at 05:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 建築とかデザインとか

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